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失われた90年代には、「オトコノコ」が自信を失い、新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジをはじめとする、戦うことができない主人公が現れたって話は、もう手あかに塗れているわけだ。さらには、アニメ的に言ってしまえば、祭谷一斗さんが指摘しているように、(http://maturiyaitto.blog90.fc2.com/blog-entry-273.html)、ワタル、ラムネといった熱い主人公たちが跋扈していた時代が、クレヨンしんちゃんの少し前にあった。この熱さも、今にしてみればただの空元気で、どうにかして「未来を担う少年たちには自信を失ってほしくない」という悲鳴にも似た願望だったのだろうと思う。
でも、野原しんのすけは90年代に生まれた、しかも90年代に自信を失っていたはずの男性作家によって生み出された「戦う主人公」だった。
野原しんのすけが戦っていたのは誰かといえば、それはいわゆる「良いもの」とされるものだった。それはPTAだったり、教委だったり、つまりは自信を失い、子どものような弱い存在にしか強く当たれなくなっていた極めて一般的な大人たちのことだ。
ちんこを振り回し、ケツを見せびらかす。
そんな野原しんのすけは、大人が注意しないといけないのだが、その大人は野原しんのすけによって「みさえ」「とーちゃん」という威厳の欠片もない存在にされてしまう。そして、蛮行を繰り返す。野原しんのすけは徹底的に一般的な大人と戦い、「バブルを経て、すべてを失ってしまったお前たちに威厳なんて残ってないんだよ」と叫び続けた。それを認めないために、そしてまだ威厳が残っていると主張したいがために、大人たちはクレヨンしんちゃんという作品を罵倒し続けた。
でも、結局はあまりにも長く続いた失われた時代と、エヴァのような威厳を失ったことを肯定するような作品により、大人たちは自分たちがすべてを失ったことを認めざるを得なかった。子どもを、自分たちより弱く優位に立てる相手ではなく、共同体の中で暖かく育て未来を作っていくためのものとしてとらえるようになった。少子化が大きく騒がれ始め、年金の心配もされるようになった頃、クレヨンしんちゃんは家族愛を描いた映画として、世の中に広く受容されていった。核家族の代表として、自信を失った情けない大人と、未来のために勇気を振り絞る子どもと、その子どもの決意を守るための大人という、極めて時代的な家族愛のもとで。
野原しんのすけの戦いは、ある意味では蚊帳の外で叫び続けているだけで、気づいたら敵が変化していて形としては勝利したように見えるものだったのかもしれない。だが、彼は大人が、オトコノコが自信を失う中、その現実を受け入れさせるために戦っていたことは確かだ。
via:僕は魔女の宅急便が嫌いだ~クレヨンしんちゃん作者の追悼文として、G.O.さんの追悼文を読んで感じたことから
http://stasis.diarynote.jp/200909202319464475/
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ふえぇ…ここまで読んでくれてありがとうだよぉ…